嫁家族と福島旅行に行って来たダイジェスト(2)
14:00 諸橋近代美術館に行く。ダリをメインにした展示会をしていた。
ダリは名前しか知らないというくらいだったのだけど、作品にストーリーがあって面白かった。絵や物を見てそれが動くのが想像できる。今ある形に行き着くまでの動きがある。その作品の過去がわかる気がして、愛着すら湧いてしまいそう。
特にオペラ、カルメンをずっと見てた。僕はカルメンをコントというかパロディでしか見たことないからコメディでしかなかったのだけど、欲望が渦巻いた人災だった。コメディとシリアスで頭の中で戦っていた。顔半分ニヤニヤしていて半分は引きつっていたと思う。
他にも色々な作品があった。ダリの作品は自分との向き合いが多かった気がした。
子供の頃、死にかけのコウモリに蟻がわらわらとたかっていて、それ以来、蟻は死のイメージがあって
死と向き合うときは蟻の作品を作ったとかなんとか。自分とは切り離した所で自分の姿を感じていたのかな。
誰でもそんな瞬間はあると思うけど、そこに触れる、踏み込むのは中々タブーというか、自分を見失いそうで危険な気はするけど、ニヤニヤしながら踏み込んで行ったのだろうか。
僕がそうなだけかも知れないけど、自分が増えてく感じは多々あって、色んな場所に色んな自分がいる。会う人によって若干だけど自分は変わる。日によってもそうだ。
だからどの自分が1番正しいのか、1番必要なのかわからなくなる。答えなんてないの分かっているから、いちいち向き合うと更に混乱する。何となくで受け入れて行くしかない。と思っている。
もやもやはするし結構毎日苦しいけど、これが1番少ないもやもやで済む気はしているから放ったらかしている。
ダリはそれを全部向き合って具現化している気がした。カッコいい。と思う。
僕は自分を豊かにする方法を働いてお金を稼いで生活をすることにした。自分とむき合うのはそこそこ辞めた。(日記書いてるけど)
でもやっぱりむき合うの怖いな。とダリの作品を見て思った。これだけ沢山具現化しても計り知れないのだろうというのも分かった。気持ちよく死ねなさそう。
あと、ダリはトウモロコシをネックレスにしたり、食べ物の栄養価を台無しにしていた。食べ物の栄養価は人間や動物の都合だ。食べ物は実は栄養価の為に生まれて来たわけではないのでは?と思ったのだろうか。
食べ物の可能性を広げる解放的な意味なのか、ただふざけているのかわからなかったけど、食べ物を栄養価として考えるのは久しぶりだった。
当時は今よりも全然食べ物に感謝をしていたと思う。だから衝撃だったはずだ。この作品をみた昔の人、どんな顔をしたのだろうか。
怒りか、悲しみか、笑いか、でも少なからず解放はあったのかなと思う。
ダリの作品、凄い迫力だった。
こんな迫力ある顔にもなるよね。
「なんでこんな事するの?/したんだろう?」から自分と向き合う時間がスタートしていった。